ここ10年余りに書きためたものをまとめた一冊。
’税理士という職業柄、向き合うことの多いひとの人生’、’人生を豊かにするものについて’、’視座の移転を可能にするものとは’、’強く影響を受けた文人や思想家(仙厓和尚、宮沢賢治、中村哲医師、坂口安吾、中村天風)’、’茶道の稽古で思いをめぐらす禅語の世界’など。
滋味豊か、存分に味わいたいエッセイ集。
まだレビューはありません
ここ10年余りに書きためたものをまとめた一冊。
’税理士という職業柄、向き合うことの多いひとの人生’、’人生を豊かにするものについて’、’視座の移転を可能にするものとは’、’強く影響を受けた文人や思想家(仙厓和尚、宮沢賢治、中村哲医師、坂口安吾、中村天風)’、’茶道の稽古で思いをめぐらす禅語の世界’など。
滋味豊か、存分に味わいたいエッセイ集。
まだレビューはありません
コメント
経営者がそれを書く場合、前者ならば経歴自慢であり、後者ならば説教か床屋政談に終始するのが通例だ。
本書を人に勧められてそのような色眼鏡で読み始めたが、豈図らんや、得難い読書体験をすることができた。
まずは「あとがき」から目を通していただきたい。
芭蕉晩年の句「よく見れば薺花咲く垣根かな」について著者は次のように述べる。
「よく見る」ことによってようやく気づく密やかな美の境地です。
そして芭蕉をして「よく見る」ことをさせたのは、なずなの花の醸し出す枯淡な風情です。
わたしは、この句を読むと、芭蕉がみずからの死を意識することで、別の視座から「よく見る」ことを促されたかの印象を受けるのです。
そうすることで、なんでもない垣根の様子が変わり、「今」が息づいてきます。
(p.222)
著者は本書のなかで、「よく見る」こと「今を息づかせること」を一貫して述べている。
話題が道元へ、寅さんへ及んでも、その点に変わりがない。
表題の「ほかならぬあのひと」は、「あこがれの誰それ」というよりも、よく見ること、今を息づかせることを絶えず意図させる、そのための視座の移転のことを言っているのだ。
終章の茶道に関する記述は、もう少しかみ砕いたものでもよかったと思うが、本書の意図するところは貫かれていた。
経営者がそれを書く場合、前者ならば経歴自慢であり、後者ならば説教か床屋政談に終始するのが通例だ。
本書を人に勧められてそのような色眼鏡で読み始めたが、豈図らんや、得難い読書体験をすることができた。
まずは「あとがき」から目を通していただきたい。
芭蕉晩年の句「よく見れば薺花咲く垣根かな」について著者は次のように述べる。
「よく見る」ことによってようやく気づく密やかな美の境地です。
そして芭蕉をして「よく見る」ことをさせたのは、なずなの花の醸し出す枯淡な風情です。
わたしは、この句を読むと、芭蕉がみずからの死を意識することで、別の視座から「よく見る」ことを促されたかの印象を受けるのです。
そうすることで、なんでもない垣根の様子が変わり、「今」が息づいてきます。
(p.222)
著者は本書のなかで、「よく見る」こと「今を息づかせること」を一貫して述べている。
話題が道元へ、寅さんへ及んでも、その点に変わりがない。
表題の「ほかならぬあのひと」は、「あこがれの誰それ」というよりも、よく見ること、今を息づかせることを絶えず意図させる、そのための視座の移転のことを言っているのだ。
終章の茶道に関する記述は、もう少しかみ砕いたものでもよかったと思うが、本書の意図するところは貫かれていた。
経営者がそれを書く場合、前者ならば経歴自慢であり、後者ならば説教か床屋政談に終始するのが通例だ。
本書を人に勧められてそのような色眼鏡で読み始めたが、豈図らんや、得難い読書体験をすることができた。
まずは「あとがき」から目を通していただきたい。
芭蕉晩年の句「よく見れば薺花咲く垣根かな」について著者は次のように述べる。
「よく見る」ことによってようやく気づく密やかな美の境地です。
そして芭蕉をして「よく見る」ことをさせたのは、なずなの花の醸し出す枯淡な風情です。
わたしは、この句を読むと、芭蕉がみずからの死を意識することで、別の視座から「よく見る」ことを促されたかの印象を受けるのです。
そうすることで、なんでもない垣根の様子が変わり、「今」が息づいてきます。
(p.222)
著者は本書のなかで、「よく見る」こと「今を息づかせること」を一貫して述べている。
話題が道元へ、寅さんへ及んでも、その点に変わりがない。
表題の「ほかならぬあのひと」は、「あこがれの誰それ」というよりも、よく見ること、今を息づかせることを絶えず意図させる、そのための視座の移転のことを言っているのだ。
終章の茶道に関する記述は、もう少しかみ砕いたものでもよかったと思うが、本書の意図するところは貫かれていた。
経営者がそれを書く場合、前者ならば経歴自慢であり、後者ならば説教か床屋政談に終始するのが通例だ。
本書を人に勧められてそのような色眼鏡で読み始めたが、豈図らんや、得難い読書体験をすることができた。
まずは「あとがき」から目を通していただきたい。
芭蕉晩年の句「よく見れば薺花咲く垣根かな」について著者は次のように述べる。
「よく見る」ことによってようやく気づく密やかな美の境地です。
そして芭蕉をして「よく見る」ことをさせたのは、なずなの花の醸し出す枯淡な風情です。
わたしは、この句を読むと、芭蕉がみずからの死を意識することで、別の視座から「よく見る」ことを促されたかの印象を受けるのです。
そうすることで、なんでもない垣根の様子が変わり、「今」が息づいてきます。
(p.222)
著者は本書のなかで、「よく見る」こと「今を息づかせること」を一貫して述べている。
話題が道元へ、寅さんへ及んでも、その点に変わりがない。
表題の「ほかならぬあのひと」は、「あこがれの誰それ」というよりも、よく見ること、今を息づかせることを絶えず意図させる、そのための視座の移転のことを言っているのだ。
終章の茶道に関する記述は、もう少しかみ砕いたものでもよかったと思うが、本書の意図するところは貫かれていた。